教えてと言ってみる。
大人になって歳を重ねるごとに”恥”を恥と思わなくなる。けれど妙なプライドも高くなっていくような気がする。知らないことを素直に教えてと言えるときもあれば、それぞれに「自分の得意とするところ」や「自分が成り立つ要素みたいなもの」については、素直に「教えて」と言いづらい。
何となく自分の柔いとこをさらけ出す気がするのか…。でも、そういう虚勢を張ることが、とっても(ちょっと?)しんどいのにね。
当然これは知っているだろうという年齢になっても、見たことも聞いたことも無いことは知らないって言っておかしく無いし、聞いても忘れちゃってることは沢山ある。『エビングハウスの忘却曲線』によれば人間の脳は20分後には42%忘れるらしい…1月では約80%も忘れちゃう(◎_◎;)…
でも残された記憶を思い出すことで脳に少しずつ定着していくそうです。この思い出す作業が「自分の力で学ぶということ」かもしれません。学校で出される宿題は、先生が子ども達が思い出す作業をしやすいように出してくれてるってことなのでしょう。
大人になると「宿題」を出してくれる人はいなくなります。記憶を残す作業をお手伝いするなんておせっかいは誰もしてくれないし、宿題無いから「ま、いいっか~」と脳はサボりがちになる(^^;)。サボったら当然「それ知らん」は増える。でも「知ってた」「みんな知ってることは自分も知ってて当然」という意識は残っているので、「教えて」とは言いづらくなってくる…多分ね…。
でもそれって、ちょっとしんどい…。思い切って「分から~ん。教えてほしいな~。」って言えたら結構すっきりするはずです。なかなか全てにおいて、とはいかないけれど…。
私は先日の農作業中にふと、「数学をもう一回勉強してみたい。」と思ってしまいました。なんで「農作業中?なんで数学?」ですが…何故かそう思ってしまったのです。
で、高校の教科書とか見返すのか?なんて思いもしたんですが…「そうだ!息子がいるやん!あいつは理系やん!」と気づき…。思い切って彼に「ちょっと数学教えて欲しいねんな~」と言ってみました。
たまにTVのクイズ番組で彼と競うと大抵オカンの私が勝つのですが、いざ数学を教えてもらうと、彼の方が勝っていることを実感します。それは当然なのに何でしょう?何だか妙に悔しいやらちょっと恥ずかしいやら?変なプライドみたいな感情が沸々と…これはアカン!でも…あ~なんかちょっとイラっとする…。
そう思いながらも教えてもらってたら、「分かった~。思い出した~。」がやっぱり嬉しいし楽しい。ちょっと得意げに先生をする彼が何となく憎たらしいけど「ええ先生やん」と思ったのです。
我が息子、妙見山で天を仰ぐ…
そして、幾つになっても「教えて」と言えるように…ついつい忘れがちだけど、たまには意識していこうと思いました。
「知らないということ」は決して恥ずかしいことじゃない。たくさんの場でそんな「自然な学び合い作り」ができていくといいな~。
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